英語の時間と休み時間

ちょこっとタメになる独り言

村上春樹の『風の歌を聴け』

僕が初めて村上春樹という作家を知ったのは高校1年生のときだった。大学に無試験で入学できるいわゆるエスカレーター式の附属高校に通っていた僕が、課題図書として指定された『風の詩を聴け』の文庫本を初めて手にしたのは校内にある小さな売店だった。授業と授業の合間の休み時間、課題図書を求める学生でごった返す小さな売店で、僕は上級生の後ろから恐る恐る手を伸ばし、この文庫本を手にしたのだ。

 

ページ数が少ないという理由だけで選ばれたこの小説だったが、僕の人生に与えた影響は大きかった。

 

「文明は伝達である」「完璧な絶望など無い」。おでこに広がるニキビと他校に通う女子高生の話題で頭が一杯の少年たちの心にこれらの言葉がどれだけ響いたのかは不明だ。しかし、僕は数年に1度、どうしようもなくこの本が読みたくなるのだ。その当時の気持ちはあまり覚えていないけれど、ページを繰る指がピタリと止まるのはいつも同じところだ。

 

「完璧な文章など存在しない。いつかその本当の意味を知ったとき、僕はより美しい言葉でこの世界を語るだろう」意訳しているが、僕はこの言葉が大好きである。「より美しい言葉で世界を語る」というところがたまらなく良い。しかし、僕の指がピタリと止まり目が宙を漂い、2、3分考え込んでしまうシーンはここではない。

 

犬の漫才師と自称するラジオのDJが、普段とは趣向の異なるしんみりとしたオープニングトークを始める。彼は1枚のはがきを読みだすのだ。葉書の差出人は脊髄に重たい病気を患い何年も寝たきりの生活を強いられている17歳の女の子で、彼女はその手紙の中で窓から見える港まで歩いていき、海の香りを胸一杯に吸い込むことが出来れば、世の中の成り立ちを少しだけ理解できるかもしれない。もし、それが出来るならこのまま人生が終わってしまっても耐えることが出来るかもしれない、と述べるのだ。

 

僕は、このシーンにくるとどうしても手を止めずにはいられなくなる。

 

僕らは僕らの目を通してしか実像を捉える事が出来ない。これは悲しいけれど事実である。今、僕がこうやってブログを書いているときに優秀な学生は100万字に及ぶ論文を書いているかもしれないし、またある若者は将来のパートナーと愛を語り合っているかもしれない。全く僕のあずかり知らぬところである。しかし、だからこそ僕らは小説を読むべきだし、小説を読む理由はきっとそこにあるのだと思う。

 

小説を読むくらいなら、もっと実用書を読んだ方が為になる。小説が実社会に生きる私たちにどのような利益をもたらすのだろうか。

こんな風に小説を読む意味を考えるとき、僕はいつも先の結論に達するのだ。

 

色々な立場に立ち様々な考えを持つ人が、お互いを理解し合うことができれば世界はより美しい言葉で語られる始めるだろう。そんな世界になれば良い。